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大日方 今回〈甘い生活〉〈最後の天使〉〈零へ〉と拝見したわけですが、〈最後の天使〉もかなりそうだと思うんですが、風景が主役ではないけど、大きな登場人物のように、映画の中で主張している、大事なものになっている気がするんです。

風景という前に、例えば建物、構造物みたいなものが、何か人間とは違う論理で生命を持ち始めるみたいな映画を作られてきた。元々体育館を描く〈SPACY〉から伊藤作品は始まっているわけだから、建築とか構造物が主役みたいな映像をずっと手がけられてきたと思うんですが、〈零へ〉だと、例えば素晴らしい錆びた鉄橋がある、これは橋の映画だ。と思って観ていくと、〈最後の天使〉〈甘い生活〉でも、やっぱり橋がそれぞれ存在感を放っている。

 

伊藤 出てきますものね、確かにね。

 

大日方 橋で何かが起こり、橋と共にある世界というか、至る所に橋が出てきますよ。踏切みたいなものも一種の橋のバリエーションと捉えられるかもしれないし。

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伊藤 もちろん橋というのは、あの世とこの世をつなぐみたいなイメージもありますしね。それから踏切もそういうものだと思うし。だから橋もそうですけど、特に踏切。踏切はね、結構この作品ではちょっと強く描こうと思ったわけです。当然皆さんも踏切を歩いて渡る瞬間は日頃からあると思うんだけど、途中で立ち止まりたくないですよね。早く渡り切りたい、だって電車来るんだもんみたいな。だから死と直結している空間なんです、踏切って。強く感じるんですよ。だからそういう空間にボーッと立っている女の人という、死を呼び込もうとしているみたいなイメージが描けるんじゃないか、原田さんが真っ黒の上下の女の人に常に踏切の中に引きずり込まれるというね。

あの黒い上下の女の人は、原田さんの幻影なんですね、原田さんが描いている人物。ドレスを着た人もそうですね。あのお皿を持って舌をベロベロやっている彼女もそうです。全部原田さんが描いている原田さんの欲望なんですね。だから黒い女の人は死を恐れているんだけど、死の欲望みたいなことも原田さんが抱いていて、だから常に踏み切りに引きずり込まれるんですよ。踏み切りをそういう死の空間として扱っていますね、今回特に強くね。

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大日方 今、その3人の登場人物についてちょっとコメントしていただいたのでついでながらというか、パート2の主演の高橋さん、自分の分身を見てしまう。それで手首を持ってさまよう彼女というのはどんな存在なのでしょう? あんまり答えは言ってほしくないとも思いつつ、やむにやまれず質問するのですが…。

 

伊藤 さっきもちらっと話したんですが、設定としては、伝わりませんけどね、原田さんと高橋さん、高橋瑞乃さんは夫婦関係という。現実の事件でも何かバラバラにして流しで流しちゃうとか、恐ろしい事件がいっぱいあるじゃないですか。だからそれを一つ自分の作品に持ち込んだというのがあるわけですよ。で、彼女は自分の夫をバラバラにしているわけだから、その自分の夫に対する憎しみというか、何かそういう気持ちがどこかあるわけです。

で、原田さんが実際にその高橋瑞乃さんを、弟子ですから教えたりしている。登場している女性はみんな彼が指導しているわけです、稽古場でね。その指導の姿も日頃からずっと見ているわけですけど、見ているとね、何かいやらしい感じがするんですね。原田さんのそのエロティックな目線というか、これは私の妄想なんですけどね。指導する時は体が触れ合いますから、原田さんは触れ合って振り付けるわけですよ、その姿を見ていて、何かものすごくエロティシズムというか、エロじじいという感じがものすごくありましてね(笑)。だから「このエロじじいめ」と言って、お弟子さんが原田さんを殺しちゃったみたいな裏設定があります(笑)。

 

大日方 そういう話はご本人達にはしたんですか?

 

伊藤 してないですよ。いや、今日来てないから。来てたら話せない。

だからそういうイメージがあったんですよ、その現実の稽古を見ていてね。何か面白いなと。だから徹底的にエロじじいとして描いているんですけど。でも原田さんは喜んでいるわけ。

 

大日方 原田さんって、存在に品がありますね。

 

伊藤 品があるから笑えるんですよね。

 

大日方 そうですよね。

 

伊藤 笑えるというか、めちゃめちゃ品があって、のぞき見したり、盗撮したりしているわけでしょ?あのギャップというかね。だから笑ってくれる人は結構いるんですよ。

 

大日方 ほほう。

 

伊藤 「ユーモラス」と感想で書く人もいるんですけどね。

それでちょっと話は戻るんだけど、さっき風景の印象が強いということだったんですが、もちろん大事にしてますよ。そこが全てみたいなところもあるんです。それでちょっと面白かったのは、今日うちのゼミの男の子からメールが来て、「今日来るつもりだったんだけど行けませんでした」と。彼にはゼミの中で〈零へ〉を見せたことがあって、感想として最初見た時に「何だかよく分からなくて頭を抱えたんですけど、何だか一つ一つのシーンは次々に出てくる」「忘れられない」みたいな。ショットとしてはね、だけど意味は分からないという感想がきて。「先生お世話になりました」と最後に書いてありましたけど(笑)。だから見る人はそういうふうに見ているんだなということが分かって良かったですね。

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大日方 伊藤さんは京都で活動されていた時期、コンテンポラリーダンスの人達と「ジュネ企画」というのをされていたじゃないですか。ジャン・ジュネという、フランス人作家のテキストを読みながら、ダンスの舞台を作る。その映像担当として参加されて、ジュネの『恋する虜』という書物をみんなで読みながら、ダンスと映像の作品を作ったというお話を伺っているんですけれども。『恋する虜』という本は、パレスチナへPLOのアラファト議長に招かれてジュネが旅する。その折のパレスチナの戦地での見聞が綴られていく本なのですが、その中でヨルダンの草原の描写のところで、「場所が性愛に目覚めた」というフレーズが書かれていて…。

 

伊藤 セイアイ?

 

大日方 「場所が」ですよ。人間がじゃなくて、場所が、物が何か引き寄せ合い、場所が性愛に目覚めた…

 

伊藤 セックスの性とLOVEの愛?性愛…

 

大日方 そう。「場所が性愛に目覚める」という一句にとても打たれたんですけど、今日拝見した〈零へ〉の後半、ウェディングドレスの松田美和子さんのダンスのところ、あのロケーション、松田さんの後ろの素晴らしい木だとか焼け焦げた土手の草むらだとか、全て、場所そのものが性愛に目覚めている、ジュネのその言葉を思い出した、すごく喚起されましたね。

 

伊藤 ああそうですか。絶賛ですね。

 

大日方 うんいや、ほんとにそう。こんなストリーの映画なのにもかかわらず、幸福感に満たされますね、僕はあそこで。

 

伊藤 めちゃめちゃグロテスクな話なのにね。

 

大日方 映画の最後、パート1のヒロインである久保ちゃんと、パート2の高橋さんがこう…

 

伊藤 向き合う。

 

大日方 池の畔で向き合うじゃないですか、何が起こっているのか全然わからないんですけれど、でもそこで何か深い慰安に満たされるような感情を持ちましたね。おかしいでしょうか?

 

伊藤 いやいやいや、絶賛の言葉だと思いますね。

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大日方 風景へのアプローチということで、伊藤高志の制作活動の中であまり知られていない部分と思うんですが、もうかなり以前から、伊藤さんは「BEACON」というプロジェクトに参加されているんですね。

 

伊藤 長年やっていますね。

 

大日方 風景を扱った映像と音のインスタレーション作品なんですけれど、それを少し紹介していただけますか。

 

伊藤 そうですね。「BEACON」というのは灯台という意味ですけれど、これは私だけの作品ではなくて、KOSUGI+ANDO*というユニットのアーティストと吉岡洋*という哲学者と稲垣貴士*という音響の作家ですね、この人達とで長年やっているインスタレーションの作品なんです。

(映像を見ながら)今何か回転しているのがちらっと見えますけど、プロジェクターが2台、180度反対側を向いているプロジェクターが円形のテーブルの上に置いてあって、そのテーブルが回転しているんですよね。だから四角い部屋にその映像がずっと投影されていくわけですけども、よく見ると風景は止まっているわけです。例えばこう来た時に後ろの風景は動かないですよね。これがこの作品のとても面白いところなんです。

それをどうやって撮影したかというと、今投影している円形の台を外へ持って行って、そこにビデオカメラを乗せて回転した映像ですね。回転する時に撮るでしょう?その回転テーブルを会場に置いて、同じ速度で今度はプロジェクションをしているわけですね。そうすると後ろに見えていますけれど、風景が止まって見える。つまり、ある風景を灯台の光がずーっと見回しているみたいな、そういう趣向のインスタレーションなんです。

これはだから、その空間の中にある風景が存在していくような感覚が生まれてくるんですよ。で、その風景が存在しているんだけど、風景はいろいろ編集されているので時間、いわゆる時空間が飛ぶんです、回転していくうちに。その違和感というか、それは映像でしか体験できないことなんですけども。だから現実には一切体験できない視覚的な体験だし、映像だからこそできるという体験なんですよね。それがこの作品の見どころというか、面白いところで。各地でやっています。残念ながら福岡でやったことがないんですね。

 

大日方 「BEACON」でずっと探究してきていることが、特に今回の〈零へ〉には流れ込んでいるなと感じますね。

 

伊藤 特に最後の無人の風景をずっと撮る、映し出しているところは、確かにこれをやってきたことが影響していますね、ものすごく。(おわり)

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