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大日方 ところで、ドラマの部分に入ってからの最初のパートは、女子大生篇ですが、冒頭のインタビューの中でちょっと疑問があるんですよ。久保さんと、今度新作に出てもらってという話をする中で、死体を埋めに行く役だというふうに伊藤さん自身がおっしゃるでしょう? 映画の中で彼女、死体を埋めに行ってますかね?

伊藤 うん、そこを突っ込まれたらどうしようかとか思っていたんですけどね。で、実は死体を埋めに行くという女の子として考えていたんですよ。マネキンだったんですけど、最初からずっと、本物の手みたいなもので、どこかに捨てに行くということを考えていた。でもそれは後半のあの女の人に引き継いでいるんです。後半の女の人は実際に手をね、自分でバラバラにした手なんですけど、自分の夫を殺してバラバラにして、その手を捨てに行くという設定なんですよ。その夫が原田さんなんです。話はちょっと飛びましたけど、そういう気持ちがものすごくあったんで、久保にインタビューする時にそれが出ちゃったんですね。出ちゃったんだけど、久保の答えも面白かったから、もういいやそのまま使っちゃえと思って。だから矛盾していますよ。

 

大日方 矛盾しててもいいと思いますよ。

 

伊藤 私の映画は矛盾だらけですからね。矛盾の面白さみたいな。

大日方 そうなってくると、久保さんのパートで最後に出てくるあの手首は誰の手首かというのは、聞きたくないんですけど、答えは…

 

伊藤 女子大生のあの2人のエピソードはね、久保がメガネかけてカメラを持って撮影しているでしょ、彼女が映画を作ろうとしているわけですよ。

 

大日方 それはわかります。

 

伊藤 それは死の映画です。死体を想定してマネキンの手を撮影したりしているわけですから、死のイメージを映画にしようと躍起になっている、一生懸命になっているんですよね。それでいろんなところに相方の女の子と一緒に撮影に行っているんですけど、設定としては相方の女の子はいないんですよ。

 

大日方 ちょっと意味がわからないです(笑)。

 

伊藤 存在しない。つまり久保の幻影ですね。久保にしか見えない幻影として、彼女を設定しているわけです。多分観客にはわからないと思うんですけど、そこはね。

 

大日方 だからもう1人の彼女が半透明になっていたり、何カ所かあるじゃないですか、それを久保さんがじっと見て何かに気づくというか、そういう感じがするから、もう1人の髪の毛の赤い彼女は存在しないというか…。

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伊藤 この世には存在しないという設定なんですよ。だからある意味久保の願望というか。要するに、そういう友達がいて欲しい、私のことを見守って欲しいみたいな姿なんですよ、あの赤毛の女の子は。だからあの赤毛の女の子は一切口にしないわけですよ、食べ物を。

 

大日方 そうですね。

 

伊藤 はい。久保しか食べないんです。

 

大日方 コッペパンとかバナナとか、ずっと食べてますよね。

 

伊藤 この映画では食べている人だけしか生きていないんです。食べている人だけが生きている人です。あとの人達は幽霊だったり、幻影だったりという設定です。だから、前半の久保ちゃんのフィクションというのは、ものすごく孤独な話なんですよ。それで映画を撮っているという設定でしょう?じゃ映画ってどういうものかというと、何かを誇張してリアリティーを作っていったりするわけですよ。よく言われますよね、普通の映画でも雨が降ってて、それを撮影しても雨は写らない。だからみんなホースで水をビャーッと撒くわけですよ。それでやっとその雨という表現ができるんです。ちょっとオーバーにやらないと、実はリアリティが出てこないということがあるわけですよ。それは久保も知っている。たとえばマネキンの首をガーンガーンと(叩いて)、血しぶきがパッと出る、出るはずないのに。あのショットは久保が作ろうとしてる映像なんですよね。あの女の子が作り上げた映像が『零へ』という作品の一部になっているという設定なんですよ。

それと橋の下に行って、ゴミをバットで赤毛の女の子が最初に4回殴るんですよ。4回というのは死をイメージしているんですけどね。あれはビートたけし(の映画)なんかでもやるんですよ。4回殴るんですね、あの人はね。それをイメージしているわけです。で、私も真似してバットで4回叩かせているんです。で、その時(赤毛の子が叩いた時)はリアルな音なんです。バシャ、バシャ、グシャって。でも久保は自分で映画を撮ろうとしているし、自分が出ているという設定でやっているので、久保がバットを振った時は音が入っているんですよ、ガシャーン、ガシャーンって。

 

大日方 音がかっこいいですよ。

 

伊藤 あれはもちろん音を足しているわけですけども、あの久保がガシャーンガシャンって叩いているところは久保が完成した映画なんです。だから出来上がった映画とそれを撮っているという時間がごちゃ混ぜに、その境界がないという世界をやっているわけです。観客には何も伝わらないですけどね、それはね。これだけ喋ってやっと、あ、そうなのと思われると思うんですけど。

 

大日方 赤毛の子がバットで鉄材をボンボンと叩きながら歩いていくじゃないですか。それを久保ちゃんが後ろから撮っていく。その久保ちゃんのカメラのショットだな、ここは…、とかそういうのはわかりましたけどね。

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​ 「零へ」撮影用小道具

 

伊藤 その前にもうひとついいですか?その久保ちゃんのショットでね、ずっとマネキンを撮っているんですよ。マネキンの手を撮っているんだけど、最後はめちゃリアルな手じゃないですか、袋に入っているのは。あれも久保が撮っている映像なんです。久保ちゃんの映画のシーンなんですよ、あのリアルな手のシーンというのはね。

 

大日方 あそこにカメラをセットして、自分が一度埋めてまた掘り出すというのを撮ってますよね。

 

伊藤 それを映画として撮っているわけです。だから、あのリアルな手というのはそこで久保が撮った映画のシーンなんですね。バットで叩く時のあの音とか、マネキンの首を吹っ飛ばすとか、あれと同じ意味でリアルな手にしているんですよ。

 

大日方 なるほど。

 

伊藤 あの手は私の手なんです。私が学生に殺された、バラバラにされたというのがいいなと思ってね(笑)。本当は赤毛の女の子の手とかにすると、筋的にとてもよく分かりますよね。男の手じゃなくて女の子の手だったら多分結びつくと思うんですよ。あ、あの久保ちゃんがあの赤毛の女の子、ついにやっちゃったんだみたいなね。それはつまんないもんね。全然面白くないでしょう。だから私の手にして謎っぽくしたわけです。

 

大日方 今までの伊藤高志映画にはないこととして、音、つまりあれってカメラを撮っている時に同時に撮った音がかなり使われているんですかね。

 

伊藤 今回はだいぶ使いましたね。

 

大日方 今までだとあまりないでしょう?

 

伊藤 今までだと今日の最初のプログラム〈甘い生活〉と〈最後の天使〉は、荒木くんが1人で全部作ってくれたんですよ、音を。その時はもちろん現場でも撮影した時も音は録っているんですよ、だけど私がものすごく声を掛けちゃうんですよね。「いいね、いいね」「ちょっとちょっと右を向いて」とか、もうずっとしゃべっているんです。だから荒木くんが「伊藤先生、使えません」とか言って全部新たに荒木くんが録ってきたんですけど。荒木くんはずらすということをものすごく考える人で。だから〈甘い生活〉も〈最後の天使〉もほとんど音がずれているんです。こう叩いた時にこのアクションと音が合ってない。それはわざとずらしているんですよね。

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最後の天使(2014)

 

大日方 叩く音というのは、荒木さんが作っているんですか?

 

伊藤 作ってます。全部彼が作って。だからそういう何か音のずれの奇妙さといいますかね、何か不気味さみたいなことが、映像の不気味さを盛り立てるという。

 

大日方 でも、今回は違う。

 

伊藤 今回はその方法をちょっと違う方向でいこうかなと思って、撮影している時の現実音をわりとそのまま使いました。

 

大日方 鳥の声だとか、遠い何か…

 

伊藤 そうそう、ワンちゃんの声とかいろいろ入っているでしょう?

 

大日方 風の音とか、すごく感じます。

 

伊藤 あれは全部後から入れてます。

 

大日方 そうですか。

 

伊藤 全部、飛行機の音も。福岡は飛行機がずっと飛んでいるから必ず入るんですよ。ゴーッという音が。だったらもう強調しちゃおうと思って、その音をね。それで空港まで撮りに行って入れているんですよ。あと足音、歩く音とか全部後から入れてますね。

 

大日方 あ、そうですか。

 

伊藤 あれ撮れないんですよね、現実に。

 

大日方 足音すごい重要だなと思って見ていたんですよ。最後の最後も聞こえてくるじゃないですか。

 

伊藤 最後あれは私が歩いている足音なんですけどね。そう、何か自己主張したがるんですけど、ヒッチコックみたいに、自分の姿を写し込むみたいな。

 

大日方 〈甘い生活〉のほうで、金髪の女の子がハンマーみたいなものをズルズル引きずりながら歩いていくじゃないですか。

 

伊藤 ありますね。

 

大日方 地面を何かを引きずりながら…、〈零へ〉も久保さんがスコップをずっと。ああいうことをやっぱり前からずっとしているんだなという。

 

伊藤 ずっとしてますね。

甘い生活(2010)
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甘い生活

 

 

大日方 だから伊藤高志映画には地面があるなって思います。〈零へ〉も特に後半の方で土がいっぱい出てくるし、地面を掘ったりということがあって、地表をなぞり続ける行為とか、地面みたいなものが一貫して重要だなと思って。

 

伊藤 なるほど。ああいいですね。私も映画作るから、やっぱり先人達がどういう考えとか方法論で作っているのかということはすごく気になって、映画をものすごくたくさん見るわけです。それでやっぱり特徴のある監督の作品というのは、すすんで見るわけですけど、北野武はもう大好きですけどね。北野武の〈ソナチネ〉という映画があるでしょう?あれはね、ある批評家の文章を読んでなるほどと思ったんですけど、〈ソナチネ〉という映画もね、亡霊の話なんですよね。もうみんな死んでるみたいな話なんですよ。だから北野武はどういうフレーミングにしたかというと、足元が見えない。例えば人物をフルショットで撮った時も地面が見えない。地面を切っちゃうんですよ、見えないように。足の下が見えないようなフレーミングで徹底しているんです。そういう批評を読んだ時に、ああ、そういう描き方があるんだと思って、とても参考になるというか刺激を受けたんですけど、そういうことも頭にあるんですよね。だから地面がしっかり映るということは、いわゆる人間がしっかり生きているという実感を描くようなものだと思うんです。それでいて、その人が幽霊だということによる何か怖さというかね。